「人魚っていると思う?」と先輩は言った。
私はお猪口を挟んでいる先輩の白魚のような指の美しさに見惚れていたから、一瞬返事が遅れた。
「先輩がいるって言うなら、いると思う」
そう答えると先輩は楽しげに笑った。その綺麗な笑顔にぼうっとなりながら、先輩こそ人魚のような人だと思う。先輩は、船を難破させてもおかしくないほどの底なしの魅力でいつも光り輝いている。さっきも駅で待ち合わせて、先輩の知り合いがやっているという和食居酒屋に入るまでの間、男も女も、いくつもの瞳がこちらに向いた。そんな先輩が、個室居酒屋で私だけの前にいてくれる。私に、独り占めさせてくれている。それだけで信じられないほど幸福だった。
「この前、東北の漁師町で、漁船に乗せてもらったんだ」
先輩は私と同じ大学で海洋生物学の研究をしていて、私が卒業しても、大学院に残り続けている。先輩は箸で白身の刺身をすくい取り、優雅な仕草で醤油を軽くつけて口に運んだ。私もつられてそれを口にする。あっさりとして、美味しい。
「霧雨の中、皆カッパを着てた。早朝の暗い海を船に積んだランプがぼんやり照らしてたけど、視界は悪くてね」
最初は、サメか何かだと思ったという。船の下を、大きな白っぽい影が通り過ぎた。大きさといい、動きといい、人にしか見えない。しかしその下半身は、人ではあり得ない形状をしていた。
「漁師の人たちはね、それを銛で刺したの。引き上げて、さばいて、船の上で食べた」
衝撃的な告白に、言葉を失って思わず箸を置く。
「その場で処理するのが習わしなんだって。私も、無理矢理食べさせられた。人魚ってさ、おとぎ話みたいな綺麗なもんじゃないよ。ほぼ、人だからさ。……私は、人を殺して食べたようなものなんだ」
先輩は、なんだか自暴自棄に見えた。真っ白な肌の上で不安げに長い睫が揺れた。
何か、フォローするようなことを言わねばと思ったのだと思う。けれど、結局私はうまく言葉を発することができなかった。先輩は、困らせてごめんねとお手洗いに立った。立ち上がる瞬間ボブカットが揺れて、隙間から見えた耳が少し赤くなっているのがわかった。いつのまにか、ガラスの徳利が空になっていた。
話があまり盛り上がらない中、その日は散会することになった。せっかく先輩の時間をもらったのに、不甲斐なさで目の前が曇る。店を出て少し歩き、駅に至る大きな交差点を渡る途中、
「さっき食べた魚、実は人魚の肉なんだって言ったら、どうする?」
と先輩は低い声で訊いた。人魚の肉を食べた者は、不老不死になれるという。もしもそれが本当だとしたら。先輩が、世界が終わる日まで一緒にいる相手として私を選んでくれたのだとしたら。
「先輩となら、いいです。私」
先輩は目の端で笑って、頭を柔らかく撫でてくれた。