ジリリとブザーが鳴り、サヤは食器洗いの手をを止めた。慣れないうちはこれが鳴るたびに驚いていたが、今は嫌いではない。一般的な日本の家庭の、ぴんぽーんという間の抜けた呼び出し音よりも緊張感があっていい。
家事代行会社のロゴが白く胸に染め抜かれた紺のエプロンで手を適当に拭きながら玄関に向かう。玄関扉に嵌まった絡まる蔦のような模様の磨りガラスの向こうにはうっすらと緑色の帽子の影が映っている。宅配便だ。
「ご苦労様です」
「あの、結構荷物重いんスけど、中いれましょうか」
「ありがとうございます。じゃあ、お願いします」
玄関の上がり框に段ボールを置いてもらいながら、玄関で靴を脱ぐところだけは本場イギリスの家と違うのだろうなと考える。家主の趣味なのか、この家はどこもかしこも外国風にできている。外壁は煉瓦を詰んだようで、玄関横の壁の一部を出っ張らせたような小さな花壇にはいくつかの薔薇が花をつけ、裏側の壁には蔦が青々と垂れ落ちていた。初めて家に入った日、中に入ってもその世界観が徹底されていることに感心したことを覚えている。
届いた箱には、冷凍商品である旨が書いてあった。中身を察して、ため息をつく。
廊下の奥のアーチの向こうがリビングで、その手前の扉が家主であるミチコの私室だ。扉を控えめにノックする。
「ミチコさん、宅配便が届きました。多分、お肉です」
扉の向こうで、パソコンを打つ音が止まる。
「ありがとう。いつも通り、パントリーの冷凍庫に入れておいて」
沈んだ調子の声だけが返ってくる。サヤは、はいとだけ答えてそっと扉の前を離れた。
最近のミチコは、どこか変だ。
ミチコは、五十代後半の女性である。独身で、資産家らしい。以前は教師をしていたというが、サヤがミチコの家に家事代行で呼ばれるようになった一年前には、既に働いていなかった。辞めてしまった理由は聞いていない。今は会社勤めをしているわけでもなく、時々文筆の仕事を引き受けながら暮らしている。
家事代行を使い始めたきっかけは、交通事故で脚を悪くして、ちょっとした家事に大幅に時間がかかるようになったためだと聞いた。だが、脚を怪我し杖が必須となったばかりだったはずのその時期でも、今ほど暗くはなかった。近頃は部屋に籠もりきりで、訪問時くらいしか顔を見せない。
段ボールは玄関で解体して、中身の冷凍肉の詰まった袋を数個ずつパントリーへ抱えていく。パントリーの扉を開けるべく冷凍肉の塊を左腕に抱えるとずしりと重さがのしかかり、結露が腕をじっとりと濡らす。
大型冷凍庫の扉を開けると、冷気が顔に吹き付けた。
もう、空になっている。二週間前に手伝いに来たときにも、肉を運んだのに。
サヤは首を傾げた。
ミチコは、イギリスの血がどこかで入っているらしく日本人女性にしてはがっしりとした体格と彫りの深い顔つきをしているが、決して頑健ではない。少しの風邪で大きく体調を崩しては寝込む事が多く、それが教師を辞めた理由なのかもしれないとサヤはなんとなく思っていた。
そんな彼女が二週間に一度運び込まれるこの大量の肉をすべて一人で食べているのだろうか。それに——
「うわ」
サヤは思わず顔をしかめた。冷凍庫内部の棚へと袋を押し上げようとした瞬間、なるべく見ないようにしていた袋の中身に、うっかり目を凝らしてしまった。緑色のラベルの下には、ささみのような小ぶりの肉がいくつも詰まっている。だが、ささみと異なるのはそれに手足がついていることだった。
——カエルだ。海外ではカエルを調理する習慣があると聞いたことはあるが、イギリスでもそうなのだろうか。皮を剥がれたカエルが大量に袋の中に詰まっているのは、気味の悪い光景だった。玄関に残してきたほかの袋を片付けに戻るのも気が重い。先週は、普通の肉だと思って運んでいたらラベルにウサギと書いてあって閉口した。サヤは大学生になり実家を出てから自炊をするようになったが、鶏、豚、牛以外の肉を食事に使おうと思ったことがない。フランス料理ではそういった肉を使うと聞いたことがあったが、両親も友人たちも洒落た店で外食をするようなタイプではなく、一度も口にしたことはなかった。
「富裕層の趣味はわからんわ」
さっさと作業を終わらせてしまおうと、肉をぎゅうと押し込んで冷凍庫の扉を閉める。ミチコはサヤを気に入ってくれているようで頻繁に指名してくれるし、ほかの家でたまにあるように自分を召使いのように扱ったりもしない。それでも、この奇妙な冷凍肉の運搬だけはいい気持ちはしなかった。
冷凍庫のモーター音が遠のいた瞬間、いつからか遠雷のような音が聞こえ続けていたことに気づく。思わず、サヤは奥の小窓の外に目をやる。冬晴れの空には雲一つない。音は、不規則に大きくなり、また小さくなり、ぎゃお、という悲鳴のような音が混じる。それは、動物の発するものであるように思えた。近所で——おそらく、この家の裏手の家のどこかで、犬か何かを飼い始めた人がいるらしい。動物虐待、という言葉が浮かぶ。普通の声ではない。苦しみのたうち回る最中にうっかりこぼれてしまったような声だった。
湿気対策であろう小窓は開けようと思っても僅かしか開かない。風を通しながら声の方角を探っていると、「サヤさん」と背後から呼びかけられて背中が跳ねた。杖をついたミチコが、パントリーの扉のところにいた。久しぶりにミチコが家の中で動き回る様子を見た気がする。次いで、ミチコの優雅に緩くウェーブしていた長い髪がすっかり乾いて細くなり、目の下に真っ黒な隈が浮いていることに気づいてまた驚く。
「サヤさん、キッチンの片付けだけ終わらせてくれたら、今日はもう上がっていいわ」とミチコは言った。
「え、まだ今日は来て三十分も経ってないんですが」
「急用ができて出かけなくてはならなくなったの」
ごめんなさいね、と有無を言わさぬ口調でミチコは言った。やっぱり変だ、とサヤは思った。こうして追い立てられるように家を出されることが増えたのも、ここ一ヶ月ほどのことだった。
年末も近いある日、木枯らしをマフラーで防ぎながらミチコの家に行くと、玄関にいくつもの靴があった。迎え入れてくれたミチコの顔には相変わらず疲労と憂鬱の影が濃く漂っている。時折仕事で会うだけの間柄だと割り切っていたはずが、会うたびにやつれていく彼女の姿を見ると心が痛んだ。リビングからは、対照的に女性たちの明るい声が漏れ聞こえてきている。
「お菓子教室の仲間なの。そろそろ帰るだろうし仕事には支障ないと思うから、ご挨拶だけお願いね」
そう言うと、ミチコは重い足取りでリビングへと先導する。ミチコの通う菓子教室では毎年、生徒が持ち寄った食べ物や飲み物でクリスマスパーティーをやる習慣があるらしい。その準備を一緒にやるために集まったというが、リビングのテーブルには三人とその手荷物が陣取り、どう見ても家主であるはずのミチコの席がない。
「家事代行会社の者です。お邪魔にならないようにしますので、よろしくお願いします」
リビングのテーブルに坐って何やら作業している三人にそう挨拶すると、何が面白いのかドッと湧いた。
「やあだ、ミチコさんてば。家事代行もお願いしてるの? しかもこんな若くて綺麗なお嬢さんに。神保町にビル持ってる方はやっぱり違うわね」
「オーブンだって立派なの持っていらっしゃるしね。羨ましい」
女たちの前に置かれた鉄のトレーの上には星をかたどった生地が一番上に乗った小さなパイがいくつも並んでいた。確かミンスパイというのだったか。クリスマスにイギリスでよく食べられているというパイだ。パイは良い具合にこんがりと焼けている。これを焼くためにオーブンを借りにきたのだろうか。終わったのなら早く出て行けばいいのに、女たちは悠長に紅茶を啜っている。
「うちなんて家事代行頼みたくたって旦那が許さないわよ」
「旦那さん、厳しいものね。それでも、まだご両親と別居されてるんだからいい方じゃない。うちなんて爺婆がうるさくって。未だに年末年始はぞうきん持って床の拭き掃除よ」
「それでも、家族のいないクリスマスや年末年始を過ごすよりはマシか。——ね、あなた、彼氏はいるの」
存在を無視されているのだと思っていたから急に話題を振られ、困惑する。サヤは黙り込んだ。『彼氏』はいないが『彼女』ならいる。だがそれを初めて会った、挨拶だけの関係の相手に言う義理はなかった。
「大学生? なら今のうちに捕まえといたほうがいいわよ、いい男。社会人になる頃にはみーんなまともな男はお手つきになっちゃうんだから。アルバイトなんかしてる場合じゃないんじゃない」
「あら、でもそう思うと家事代行っていいアルバイトかもしれないわね。お金をもらいながら家事の勉強が出来るんだもの。花嫁修業にうちの娘に勧めようかしら」
心の奥がすっと冷えていく。はしゃぐ女たちが別の星の生き物のように思えてくる。不意に冷凍庫を思い返す。パントリーの奥の大型冷凍庫。あそこで気味の悪い肉塊を整理している時の方がよほどマシに思えた。なにせ、肉は余計なことを喋らない。
不意に、キッチンからガシャンと何かが割れた音がした。
「ちょっと、何」
婦人たちはおしゃべりを止め、腰を浮かす。それを制して一歩踏み出すと同時に、キッチンから「サヤさん、ちょっといい?」と声がかかった。
立ち尽くすミチコの前には、大皿が落ちていくつかの大きな塊に分かれていた。とっさにしゃがみ込むと目の前で立ち尽くす白いくるぶしにうっすらと血が滲んでいる。
「ミチコさん、血が」
「ああ、大丈夫よ。たいしたことないの。それより、この脚じゃしゃがむのがつらいから、お片付けお願いしてもいいかしら」
割れてしまったのは白地に青く植物の文様が描かれた綺麗な皿だった。たった今取り出したようにキッチンの上の物入れの扉が開いている。この場面にはそぐわない、グラタンでも入れそうな深皿だ。
——もしかして、わざと割ったのだろうか。
「なあに、落としたの、お皿。ミチコさんってしっかりしてるように見えて意外とうっかりしたところあるのね」
ぶしつけな声に振り返ると、婦人たちが連れだってキッチンを覗きに来ていた。箒はどこ、そういえばちりとりが玄関にあったわね、やだ高そうなお皿なのに勿体ないなどと言いながら、勝手に割れ物を片付けてゆく。日々自分で家事をやっているとアピールしていただけあって、仕事は早かった。
サヤは慌ててリビングに掃除機を取りに行った。
「そういえばさっきは気づかなかったけど、そこの扉、もしかしてパントリー?」
すべての片付けが終わった後、三人のうち一人が、キッチンの奥を指さした。
「あ、ほんとだ。いいわねえ。なかなか都心のマンションじゃスペース的に難しいわよね」
「ちょっと中、覗いてみてもいい?」
苦虫をかみつぶしたような仏頂面で立ち尽くしていたミチコが、急に顔色を変えた。
「やめて」
鋭い声を発すると同時に、端に立てかけていた杖を素早く取って、扉を隠すように仁王立ちする。
「どうしたのよ、急に」
「もう帰って下さい、申し訳ないけど」
何がなんだかわからないうちに、女たちはキッチンからもリビングからも外に出されてしまった。三人が帰った途端、気が抜けたのか、ミチコは玄関に座り込んでしまった。眩暈がするというので、薬のありかを聞いて水と一緒に渡す。薬を飲んだ後、ミチコはしばらくサヤの差し出した腕につかまって俯いていた。数分後、みっともないところ見せちゃったわねと、ミチコはごまかすように微笑んだ。
一度だけ、ミチコの部屋に入ったことがある。まだ、この家での仕事を始めて日が浅かった時のことだ。
掃除機がけはリビングと廊下だけで良いと言われていたはずなのに、同時期に仕事をしていた別の家と混同し、ミチコの部屋にも掃除機がけをしてしまった。その頃のミチコは今よりずっと元気で、家の中の仕事をサヤに任せてちょっとした買い物を外で済ませてくるようなこともあった。その日は確か、切手を切らして郵便局に行っていた。
大量の本の収められた本棚が圧迫感を感じさせる部屋の隅には小さな机があり、その上には木の写真立てがあった。若かりし頃のミチコと思われる人と髪の長い女性が、鬱蒼とした森と鳥居を背景に並んで映っている。ミチコもこの年代にしては背の高い方だが、もう一人はさらに高い。ミチコの肩に腕を置いたその人は、狐のような切れ長の目で不敵に笑っていた。
その後、すぐにミチコが帰ってきて、丁寧に、この部屋は今後掃除をしなくて良いと伝えてくれた。
その写真だけで自分と同じだと思い込めるほどには、世間で同類に出会える機会は多くなかった。しかし、ミチコが皿を割ったとき、やっぱりもしかして、と思った。
きっと彼女も、いつだって世の中が勝手に当てはめてこようとする鋳型に息苦しさを感じてきたのだ。だからあの時、助けてくれた。
次の訪問は、数日後だった。元々予定していた洗濯物畳みや掃除機がけなどの細々とした家事を済ませたあと、サヤはミチコに誘われてリビングのテーブルへと坐った。
いつの間にか、テーブルの上には二人分の紅茶と、粉砂糖で綺麗にデコレーションされた薄いケーキのようなものが皿に取り分けてあった。この前の詫びのようなものかと思って一度遠慮すると、確かにそれもあるんだけど、ほかにも少し話したいことがあって、とミチコは言った。
「これ、知ってる? シュトーレンって言うの」
「知らなかったです」
「ドイツのお菓子なのよ。クリスマスシーズン前に作って、少しずつ切り分けて食べるのよ」
口に含むと粉砂糖がほろりと解け、ナッツやドライフルーツが色とりどりの味と食感を伝えてくる。ミチコも、一緒に紅茶を飲み、シュトーレンを口にしている。その姿を見て少しほっとする。最初の頃は食事の作り置きの手伝いなどもしていたが、最近では料理を頼まれることもなくなっていた。久しぶりに、ミチコがまともに物を食べているところを見た気がする。
「サヤさん、年始はご実家に帰るの?」
「今年はこっちにいるつもりです」
どうせ帰っても居場所がないのはわかっていた。実家には父はもうおらず、今は母と母の恋人が暮らしている。気を遣われるくらいならこちらに残ってアルバイトに時間を使い、卒業後に自活するための資金を貯めたかった。
「会社を通さないアルバイトをする気はない?」
見透かしたようにミチコが言う。
「——バレたら私、クビになってしまいます」
「お互い言わなきゃわかるはずないわ。一回きりだもの。普段の仕事はもちろんこれまで通りに。ただ、そう——言うなれば、年末ボーナスね。会社を通さない分あなたの利益になると思うし、年末年始手当もつけるつもり」
サヤはフォークを皿に置いた。少し考えてから、まだ砂糖の甘さの残る唇を開く。
「頼みたいことって、何なんですか」
「地下室から、運び出してほしいものがあるの」
ミチコは、じっとサヤを見つめる。
「あなたにしか、頼めないのよ」
物を運搬するだけにしては悲壮な決意を込めた顔を見て、サヤは頷くしかなくなってしまう。
クリスマスから年始の間のどこか、詳しくは近くなったら連絡すると言われていたが、結局その日は大晦日になった。連絡を待っていたために結局あまりアルバイトを詰め込めなかったが、それでも充分なくらいの額をミチコは支払ってくれた。
夜の住宅街を、足音を殺すようにしてミチコの家へと向かう。東京は年がら年中うるさいところだと思っていたけれど、暮らし始めてから、年末年始だけはひっそりと街が静まることを知った。皆、地方の実家に帰ったり、旅行に行ったりしているのだろう。ひとけのない街に行き場のない人間たちだけが取り残されているのだと思うと怖いような、安心するような気がする。
家に着くと、ミチコはいつもと変わらずサヤを歓待してくれた。今日は暖かそうなワインレッドのざっくりしたニットに白のロングスカートを着ていて、深夜と言ってもおかしくない時間だというのに薄化粧をしている。まだこの家の中だけクリスマスが続いているかのようだ。
夕飯を食べたかと聞くので、すでに家で食べてきていたけれどサヤはお腹がすいているフリをした。ミチコと共にキッチンに行くと、大きなキャセロールにぎっしりとロールキャベツが詰まっていた。
皿に取り分けたあと、ミチコは黄緑色の葉っぱの上に小さなパンに入っていた白いソースをかけてくれた。
「何か、いいことあったんですか」
コンソメと塩味がいい具合に染みこんだロールキャベツを頬張りながら、サヤは問う。
「どうして?」
「だってなんだか、パーティみたい」
ミチコは、ぼんやりしてたら作り過ぎちゃったの、だからあなたが食べてくれてよかった、とどこか寂しげに微笑んだ。
ごろごろと、遠雷のような音が、またどこかで響いていた。雨が、やってくるのだろうか。
翌朝、リビングの端に布団を敷いて寝ていたサヤは、まだ暗いうちにミチコに肩を揺り起こされた。汚れてもいい服を持ってきてと言われていたので、上下そろいの紺のスウェットを身につけた。ミチコは、昨日と全く同じ格好をしていた。もしかして、眠っていないのだろうか。
朝食もとらず、案内されたのはキッチンの奥のパントリーだった。入ってみて驚く。狭いパントリーの奥には、リビングの端で物置になっていたはずのロッキングチェアが詰め込まられていた。その上には、毛布が無造作に置かれている。姿を見ないと思ったら、昨晩ミチコはここに篭っていたのだろうか。いや、もしかしてもっと前から——。
ミチコの指示でロッキングチェアを一度引き出してリビングに戻す。それから、床下収納だと思っていた扉をミチコが持ち上げた。
ぽっかりと床に穴が開き、梯子が闇の中に続いている。
「ここは——」
「地下室よ。——脚を悪くしてからなかなか降りられないのだけど」
下を覗き込んだ瞬間、異臭が鼻をつき、思わず身を引く。食べ物の腐る酸っぱい匂い。そして洗っていない犬の匂いをさらに濃く濃縮したような匂いだ。匂いは鼻の奥に残り、胃をむかつかせる。
「降りて、様子を見てきてほしいの」
ミチコは、キッチンの端に上に準備してあったランタンを差し出してくる。受け取るのを躊躇っていると手を柔らかくすくい上げられ、取っ手を握らされる。ミチコの手は、震えていた。
「お願い……お願いします。あれは、私が降りられなくなってもしばらくは自力で出てきていたのに……一ヶ月くらい前からはもう……。何日か前からは、ほとんど声も聞こえなくなって……きっと……きっと、もうすぐなの」
静かに涙を流すミチコの手を、振り払えなかった。覚悟を決めて、ランタンを受け取る。
梯子を伝って穴の底に慎重に降りてゆく。
コンクリートの床につま先がつくと、ほっとした。それにしても匂いが酷い。明かりを掲げて、周囲を見渡す。
不意に、照らし出された範囲の端で、何かが蠢いた。
部屋の隅に、闇が蹲っている。
そちらにランタンを向けて、一歩近づく。
それには、細い鼻と、傷だらけの二つの耳がついていた。漆黒の瞳で、じっとこちらを睨み据えている。狐に、よく似ている。だが、狐にしては大きい。体を丸めた状態でも、小学生くらいの大きさはある。それが僅かに身じろぎするたび、揺れる灯りに呼応するように影が大きくなったり小さくなったりする。
遠雷のような音が、ぐるぐると地下室で渦巻く。少し前から聞こえていたそれが、獣の唸り声だったと知る。
「見えたものを教えて」
「き、狐みたいなのが、います」
「どんな様子?」
そうミチコが天井から尋ねた途端、狐の体がふらつき、倒れ込んだ。サヤはあっと叫んで、「倒れて——具合が悪そうです」と伝える。
ゆっくりと、獣に近づいてゆく。
意識がないようだ。激しい呼吸に合わせて痩せた胸が上下する。大きく見えた体は、横たわった状態では悲しくなるほどに薄かった。耳まで裂けた口からはだらりと舌がこぼれ落ちている。隙間から見える歯は、すっかり茶色くなりいくつかは欠けている。
「それを、抱いて連れてきてくれるかしら」とミチコが言った。
「ここから出してあげたいの。——最期だから」
「——大きい、バスタオルとか、タオルケットとかありますか」
しばらくすると、天井の穴から、タオルケットが落とされた。
嫌がるかと思ったが、タオルケットで体を覆っても獣はされるがままにしていた。体を持ち上げる過程で獣の尾が複数に分かれていることに気づいたが、もはや驚かなかった。淡々と布で包み込み、端を結んで首に通す。体格の大きさから重さで結びが解けてしまわないか心配したが杞憂だった。思ったよりずっと軽い。タオル越しに、骨の感触がした。落とさないように狐の体を片腕で支え、もう片方の腕で梯子に捕まって上がってゆく。
キッチンの床にたどり着くと、食らいつくような勢いでミチコが、サヤの腕に抱かれた獣に顔を近づけた。
「玉藻さん」
玉藻さんと呼ばれた獣は、うっすらと目を開ける。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ずっと、出してあげられなくて」
抱いている自分にすら腐臭の混じる獣の吐息が届いているのに、ミチコは獣の鼻面に口づけせんばかりに顔を近づけ、気遣わしげに汚れた被毛を撫でる。
その様を見つめながら、冷凍肉のことを思う。あれはもしかすると、この獣のためのものだったのだろうか。地下室の梯子のそばにあった異臭を放つ塊。あれは、腐った肉ではなかっただろうか。弱って地下室から出られなくなった獣のために肉を紐か何かで括って下ろしていたのだ。
しかし、獣はそれも少しずつ食べなくなって、肉は腐ってただ積み重なり、それでもミチコは毎日、ただ、獣に生きてほしくてそれを繰り返していたのだろう。
しばらく経って、泣きはらした顔のミチコに誘導されるまま玄関を出た。少し歩くと、緑に覆われた小さなお社がある。コンクリートにすべて覆われた住宅街の中で、その周辺だけ地面が土だった。元旦だからお参りに来る人がいるのではと心配したが、不思議なほどに周囲は静まりかえっている。
「ほら、玉藻さん。久しぶりの外よ。気持ちいいでしょう」
ミチコが声をかけると、獣は、顔を上げた。ひくひくと鼻を動かして冷たい空気を嗅ぐ。白濁した目が周囲をどろりと見渡し、そしてミチコの顔で視線を止めた。
目は、もう見えていないのだろう。それなのに獣は、愛おしげにミチコの顔を見つめているようだった。
サヤはいつの間にか泣いていた。
獣は、夜明けの光が密度を増すごとに力を失い、擡げていた首をゆっくりと下ろした。
そうしてしばらくの後、砂になってさらさらと空気に溶けていった。