まゆびらき日記

虚実ないまぜの日記と小説。

短編小説:金木犀と恋

 発車ぎりぎりに飛び込んだ電車は、一時間近くもその揺れに身を任せていれば多くの乗客をそれぞれの住む街に下ろし、ただ、闇の中を進むだけの箱になった。自分もその「乗客」のうちのひとりだという印象は薄い。それはそうだ。あの人たちにはみんな目的地がある。自分にはそれがない。

 背後を振り返り車窓に目を移せば都会からすっかり田舎の方に移ってきたという実感が湧いた。つい数十分前には窓の外に光と人が溢れていたのにここにはない。窓ガラスの向こうにあるものと言えばおそらく田んぼとその間の道と、ぽつりぽつりと立つ家々、そして山の稜線。だが道の両脇に立つ街灯以外の部分は闇に飲まれてよく見えない。それらをぼんやり眺めているうちにざっと音がして視界が遮られた。窓の外に見えていた景色は一変し、木々と笹ばかりになる。山の一部に入り込んでしまったようだった。

 視線を前に戻す。向かい側のガラスには自分の顔がうつっていた。拗ねたようなつり目の背の高い男。三十路を過ぎた顔には以前のような若々しさはない。肌は以前の張りを失い、目は輝きを失ってしまった。電車のガラスに映り込む像でも目が落ちくぼんで見えるのは隈のせいだ。人気商売としては失格だ。そんなことを冷静に分析している自分が嫌になり、目をつぶり頭を垂れる。しかしいっこうに眠気は訪れない。ただただ、何も考えないように、ひたすら呼吸の数を数える。

 そうしているうちに次の駅にたどり着き、また数名乗客が降りていった。
秋口の冷たい風が心地いい。ふと目を電光掲示板へと向ける。その上に掲げられた駅名の表と今到着したばかりの駅名を照らし合わせる。終着駅まではまだ数駅あるようだった。また背中を座席の柔らかな背もたれに凭せかける。左右を見渡せばついにこの車両に自分以外がいなくなってしまったことがわかった。少しだけ大きく息を吸えば、肺につめたい空気が流れ込む。
それは肺から肩へ、腕の先へと充満し、腕の先を甘くしびれさせる。しずかにそれを吐き出す。体の内側から、モヤモヤした灰色の霧が吐き出されるような気がして、すこしだけ安心する。このまま、電車の座席に寝転んでしまいたいような気持ちだった。

 吐き出した息の分を吸い込んだ瞬間、ふと、甘い香りが香った。外からだろうか。思わず車外を見ようとしたタイミングで扉が閉まった。
 なんだか懐かしい匂いだった。しばし考えてその名を思い出す。
 金木犀
 秋に黄色い小さな花をつける、その花の香りは特別な記憶を思い起こさせた。

 今の恋人と出会ったのは三年前のことだった。二十歳も離れた、同性の恋人。まさかそんな相手に、一夜にして恋に落ちるとは思ってもいなかった。
 役者仲間の結婚式の二次会で、俺は鬱屈とし、一人きりで舐めるように酒を飲んでいた。雰囲気の良いクラブを貸し切って行われたその会では男も女もきらびやかに着飾り、したたかに酔い、気楽に肌を触れあわせては笑いさんざめいていた。ミラーボールの輝く中でビートのきいた音楽に合わせて踊る彼らを眺めながら、俺の頭の中を占めていたのはまったく別のことだった。
 昨日、とある舞台を見に行った。関係者席でもなく、自らチケットを手に入れて、たったひとりで。黒と赤で構成された淫靡な雰囲気を漂わせる舞台セットや衣装、一流の役者たちの迫真の演技。古典を下敷きとしながらも斬新な話の内容。それはあまりに完璧で、だからこそ、俺はうちひしがれた。舞台を構成する役者のなかに、俺をオーディションで蹴落としてその舞台に上った男がいた。完敗だと思った。彼の演技はあまりに見事で、磨き上げられていた。もし自分がオーディションに受かってあの場にいたら、あんな演技ができただろうか。あんな風に輝くことができていただろうか。
 いつの間にか噛み締めていた奥歯に気付き、口を開くとグラスを呷った。そのとき、晴れ着をビールでびしょびしょに濡らした新郎が近づいてくるのに気付いた。

「なんだよ、そんなつまんなそうな顔して。まだ気にしてんのかよ」

 若干の申し訳なさを感じながら同い年の戦友に素直に謝った。彼は仕方ないなあというように微かに微笑みを浮かべながらため息をついた。

「ところでさ、お前、あの人と一緒に仕事してみたいって言ってただろう」

 後方の壁を視線で示す。そこにいたのは白髪混じりの髪を短く刈った男だった。グレーのベレー帽をかぶり、銀縁の丸眼鏡をかけて一人でスツールに腰掛けている。結婚式の二次会という若者同士が出会い騒ぐことが副次的な目的となっている場にその姿はそぐわず、その上、何故か彼はひとりその場で酒を傍らに置きながら本を読んでいるのだった。
 新郎に耳打ちされた名前に目を見開いた。
 それは、昨日見たばかりの舞台の脚本を担当していた男だった。

「こんばんは」

 声をかけるとその男はゆるりと口角を持ち上げた。座れと手で促され、スツールの反対側に腰掛ける。

「昨日、赤坂に行ってきたんです」

 そう一言、言葉にするだけで心臓に血が滲むような思いがあった。
 赤坂で今日もかかっているあの舞台に、自分はいない。

「それでキミは、自分を売り込みに来たの?」

 唐突に、手元の本に瞳を落としたまま、彼はそう言った。俺は面くらい、その後すぐに納得した。彼ほどの脚本家がこの場にいたら、そういう声がけは数知れないだろうと。

「いいえ。ただ、感想を伝えたかっただけです」

 その瞬間、彼のアーモンド型の瞳がきらめき、微笑みが深まった気がした。俺は言葉を選びながら、いくつかの感じたことを伝えた。伝えながら、心に刺さったとげが徐々に溶け、流れてゆくのを感じた。余計なものを廃して作品にだけ向き合えば、本当に心動かされる、凄い作品だった。彼は最初、試すような、見透かすような瞳を意味ありげに時々光らせていたが、お互いに好きな作品の傾向が重なるということに気付くと一気に相好を崩した。その時彼は五十代に足をかけようとしている年齢だったが、年齢差など感じさせない幅広い好奇心の持ちようと考察の深さには驚かざるを得なかった。

「出ようか」

 彼がトイレから戻る時、俺の肩に手をかけて囁いた。そうして、騒がしい音楽のかかるクラブを二人で抜け出した。一駅先まで散歩でもしようと彼が言うのでぶらぶらと歩きながらいろいろな話をした。生まれ育った場所の話、どんな子供だったのか、いつ上京したのか、これまでどんな仕事をしてきたのか。そして、どんな恋をしてきたのか。彼の語り口は物語風で、決して聞き飽きることがなかった。俺の話もとても良く聞いてくれた。口元に笑みを浮かべながら、所々短い質問を挟んで。一駅ぶん歩いてもまだ話が尽きず、見知らぬ街を彷徨った。
 そうこうしているうちに沼のある、大きな公園の一角にたどり着いた。暗闇の中で、金木犀が香っていた。歩きながら、互いの肩が触れあい、そしていつの間にか 指を絡ませ合っていた。ベンチに座り、街灯の光が微かに揺らめく水面を眺める。

「俺でもなれますかね、あなたみたいに」

 そんなことを言った。
 不安と嫉妬で疲れた俺の言葉はかすれて、みっともなく響いた。

「なれるさ」

 彼はあまりにも軽々と言い切った。
 俺は少し不安になって彼の顔をのぞき込む。

「なんでそう言い切れるんですか」

 繋いだ手に強く、力が込められた。彼は俺の眼を覗き返してくる。薄い色の眼球が、街灯の明かりをともして月のようにぼんやりと明るく光っている。

「僕が魔法をかけたからさ」
「え?」
「キミはきっと良い役者になるって、さっき魔法をかけたの」

 彼はそう言って口の端を持ち上げて見せた。

「僕は魔法使いだからね」

 その謎めいたほほえみや、洒脱な丸眼鏡と高い鷲鼻は、確かに魔法使いのようだった。


 また電車のドアが電子音と共に開き、はっとする。
 扉が開いたまま、電車は動く様子がない。遠くでばたん、ばたんと扉を開くような音が聞こえる。顔を向ければ車掌が左右の座席を確認しながら電車の端からこちらへと向かってきていた。終点だった。俺は仕方なく、心地よい座席から体を起こし、外に出た。
 時計を見れば十二時を回っている。おそらくはこれが終電だろう。数人の人影と共に改札の外に出る。駅の階段を降りて行く先に、一本の大きな木の下を囲うようにベンチが設えられていた。とりあえずそこに腰掛ける。
 風は涼しかったがまだ冬の寒さと言うほどではない。
 知らない駅名の看板を見上げ、ぼんやりとする。
 無計画にここまで来てしまったが、朝までここにいるというのも悪くないかもしれない。
 先ほどとは違う駅だというのに、また、ふわりと金木犀が香った。
 逃げ出したいような気持ちに駆られるが、他に行くあてがあるわけでもない。

 出会ったときに言ってくれた彼の言葉を今もよく覚えている。
 それを信じて今日ここまでやってきた。きっと良い役者になれる。彼が言うのだから間違いない。けれど魔法なんてなかった。

 ただ地道に、毎日少しずつ前に進んでいく、それが彼の魔法。彼の部屋に入り浸り、半同棲に近くなってからはより一層強く彼の魔法の存在を感じた。飽きず、諦めず、流されず、ただ毎日こつこつと机に向かうことのできる彼。その背中を見るたび才能というものの差を思い知らされた。彼は俺が、彼と同じように努力をし続けられると信じた。信じて、大きく手を広げて、ただ待ってくれていた。でも、俺にはできない。できるはずがない。彼の歳を重ねるごとに細く、筋肉が落ちていく背中は、それでも何故かとてつもなく大きく、近づきがたく見えた。

 彼はもとは小説家だったという。舞台の脚本を作るようになったのは劇団を主宰する友人に頼まれてのことだった。小説家になるまではとても苦労したらしい。若くして小説の賞を取り、勢いで会社を辞めた。しかし三十代の後半まで食うや食わずやという時代が続いた。何度ももう終わりにしよう、会社員に戻ろうと思ったという。そんなときに友人から声がかかり、それをきっかけに、脚本家に転身してからは思いがけず仕事が切れることはなく、ヒット作となる作品をいくつも生み出した。売れっ子脚本家と言われるようになった今でも、彼は毎日毎日、地道に机に向かい続ける。勉強をし続ける。
 努力を続けられることも一つの才能だ。自分にはとても真似できない。そんな風に思ってしまってからはそばにいることがつらくなった。次第に彼の部屋からは足が遠のき、俺は彼の魔法を忘れ、自堕落の沼に沈むようになった。次第に仕事が途切れがちになり、いよいよ、多少の勢いに乗っていた時期につくった貯金に、手をつけるようになった。そうなってからは転がり落ちるように精神が崩れていった。不安と恐怖にさいなまれ、何か食べても味がしない。どんどん痩せていき、仲間たちもそんな俺を敬遠し始めた。

 とある公演の中日。
 この公演が終わったら、しばらくの間次の仕事がないことがわかっていた。仕事場を出ても家に帰りたくなくて街を彷徨った。翌日は休演日だからと自分で自分に言い訳をし続けていた。新宿駅の地下道を、急ぐ人に迷惑そうな顔をされながらだらだらと歩き、店に入るわけでもないのに百貨店の前をうろうろと行き来する。改札を通っても帰り道に繋がる電車のホームに行き着きたくなくてぐずぐずと歩き回った。

 気付くと普段は乗らない路線のホームに立っていた。
 十番線。急行電車が止まっていた。
 車体の行き先表示には聞いたことはあるが行ったことはない駅の名前が表示されている。
 けたたましいベルの音が数秒後の発車を告げる。
 何かに背中を押された気がした。
 俺は衝動的にその電車に飛び乗り、何故かここまで来てしまっていた。


 不意に音楽とバイブ音が闇の中に騒々しく鳴り響いた。
 布バッグをまさぐる。携帯電話が鳴っていた。
 表示された名前を見て腹の底が重くなる。
 恋人の名前だった。
 しばらく逡巡した後、応答ボタンを押す。

「こんばんは」

 ゆったりとしたその声に彼の顔が浮かんだ。
 きゅっと持ち上がった口角の端に愛想を漂わせた、チャーミングな彼の笑顔。電話をするときは目線を斜め下に落としていることが多い。
 なんだか泣きそうな気持ちになる。

「……こんばんは」

 どう答えたら良いかわからずぶっきらぼうな答え方になってしまった。

「最近うちにも来ないし連絡もないなと思って電話しちゃった」
「はい」
「なんだよはいって、かしこまっちゃって」

 笑う声が懐かしく感じる。声を出せずに俺が黙っていると電話の向こうの気配が少し変わったような気がした。

「ねえ、どうかした?」

 気遣うような柔らかな声。

「………なんでもない」

 辛うじてそれだけを答える。
 途方に暮れた子供に戻ってしまったような気持ちだった。
 どうしたらいいのかわからない。
 あこがれで、嫉妬の対象で、恋い焦がれる相手で、理想の父親のようで、でももう一緒にいることがただただ苦しくて、別れを切り出そうかと思っていた彼の声。
 彼との関係も、役者の仕事も、すべてなかったことにして、新しいスタートを切るのが正しい道なのではとここしばらくずっと、思い悩んできたのに。

「今どこにいるの?」

 彼が問いかける。俺は答えられない。

「迎えに行くからそこで待ってなさい」

 ただただ、優しい彼の声。その声の柔らかさと、柔らかい中にある強制力に押されて、とうとう俺は今いる駅の名前を彼に伝えてしまった。

 車を持っていないはずの恋人が車に乗って現れたのはそれから一時間後のことだった。運転席には知らない男が座っていた。助手席から出てくると、彼は俺を後部座席に押し込めて自分も反対側の扉からその車に乗った。

「まだ公演期間中なんでしょう。寝てなさい」

 彼の皺の刻まれた、骨張った手が俺の頭を、ぽん、と一度撫でてすぐに離れていく。
 車が動き出す。
 運転席の男は、ラジオをかけ始める。
 俺は見覚えのない景色が後に後に流れていくのをただ見つめていた。

「俺、この公演が終わったら……」

 役者を辞めようと思ってる。そう言葉にしたかったがそれができなかった。ふっと微笑みを漏らすような吐息の音が聞こえた。

「そうしたければしてもいいけどさ。考えるのは明日にしたら」

 車は農道の闇の中を走り抜けてゆく。対向車はなく、遠くに見える高速道路の明かりを目指して静かに進んでゆく。
 ちらりと盗み見ると彼もまた車窓を見ていた。闇の中に半分が沈むその顔は白く、水分を失い、年相応に皺が刻まれている。出会ったときより更に年齢を感じさせる。それでもなお、強い意志を感じさせる引き締まった口元と強い眼の光。

「……いいな。強くて」

 俺が独り言のようにつぶやくと、彼はちらりとこちらを見た。
 そして、一拍おいて意味ありげに眼を細め、にやりとした。

「三十歳の時の俺も、こんなふうだったと思う?」

 じっと彼を見返す。昔の写真を見たことがあるはずだったのに、今、その姿がどうしても思い出せない。

「昔からこんなだったら気持ち悪いだろ」

 彼はそう言って、俺の手に自分の手を重ねてきた。彼の言葉の意図は俺の脳内を上滑りしうまく心に入り込んではこなかったけれど、俺はその掌の暖かさを頼りに、いったんすべての出来事を棚上げして眠ることを決め、ゆっくりと瞳を閉じた。

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