まゆびらき日記

虚実ないまぜの日記と小説。

【小説】あじさい荘の怪異(翻案 浅茅が宿)

 霧雨の方が濡れるといつか宮奈が言った。彼女は雨が嫌いだった。どんなに弱い雨の日でも、必ず傘をさして歩いたし、本降りの日はしょっちゅう寝込んだ。雨が降ると、窓に落ちる水音を聴きながら、彼女はいかにもしんどそうに布団の中で丸まって、いつまでも出てこなかった。外に出て濡れたわけでもないのに、そういう時の彼女のからだはいつも冷え切っていた。
 駅から十数分歩くうちに、勝海のポニーテールに結った明るい茶の髪はじっとりと湿り、薄青のパーカーのフードは雨を吸って重く背に垂れ下がった。フランスでは少しの雨なら皆、傘を差さない。十年の生活でその環境に慣れていたはずなのに、日本では雨がやけに冷たく感じる。
 キャリーバッグを引き摺りながら住宅街を更に数分歩くと、目的地が見えてくる。勝海は、目を疑った。小規模な学校のような角張ったシルエットは、確かに自分のかつて住んでいたあのマンションだった。だが、妙に古びている。近づくごとに、破れたカーテンがそのままになった部屋や、建設現場のような金属の支柱が渡されビニールで覆われた壁が見えてくる。
 勝海が住んでいた頃から、周囲から浮いた少し変わった建物ではあった。
 二つの建物からなる敷地は、片側がコンクリートの高い壁で覆われている。そのせいで、コの字型の建物であるかのような錯覚を見るものに抱かせる。
 建物部分は片方が三階建て、もう片方は二階建て。二つの建物の間は、東京には珍しく、土の中庭のようになっていた。かつてはそこに一階の住人が洗濯物干しを作り、時折上階の住人がそこを借りるといった交流があった。
 コの字の開口部を綴じている西洋風の門扉に近づいて覗き込んでみると、当時の面影はない。陽が落ちかけ、建物の影になった中庭には雑草が丈高く伸び、風でそよぐたびその下に闇が蠢いた。
 たった十年でここまで廃墟のようになるものか。戸惑いながら、周囲を回って入り口へと向かう。肩の高さにある金属の表札には『あじさい荘』と書いてあった。間違いない。扉をきしませて中へと入れば郵便ポストが戸数分並んでいる。あちこち錆びてはいるが、チラシや郵便物が溜まっている様子はない。そういえばかつて、夜逃げか何かだろうか、急にいなくなってしまった住人の部屋のポストがチラシであふれかえっていたことがあった。ポストはしばらくそのままだったが、一ヶ月ほど経った頃、不意に全ての紙類が見えなくなった。今も、誰かが管理をしているのは間違いがなさそうだった。
 内廊下を一歩歩くごとに、ぼこぼこしたコンクリートの床でキャリーバッグが跳ね上がる。階段の前で、歩きづらいから持ち方を変えようか、それとも用を済ませるまでここに置いておこうかと考えながら一度立ち止まる。黄色とオレンジと赤というはっきりした色だけでできた迷彩柄のキャリーバッグは、どこもかしこも灰色の、暗い建物の中で場違いな生命力を放っていた。
 物音がして、端の部屋から女が出てきた。女は箒を手にして、くすんだ色の作務衣を着ている。どこかで見たことがある。記憶を探りながら軽く頭を下げた。
 そうだ、確か管理人の、漆原といった。二階建ての方の建物の一階に管理人室兼住居を構えていたはずだ。
 建物同様、すっかり歳を取っている。以前も五十か六十は過ぎているだろうと思っていたが、その頃ぴしりと伸ばしていた背が少し前屈みになり、ぎこちない体の動きから、腰を悪くしているように思えた。
「お客さんですか。三階の?」
 漆原は、自分のことを覚えていないようだった。
「いえ、私、以前二階の端に住んでいた者で――確か二〇四号室」
 ああ、やっぱりと漆原は一人納得している。言葉の意味を測りかねて、勝海は曖昧に首を傾げる。
「随分様子が違っていたので驚きました」
「震災のせいだよ。建物が割れて、ほとんどが出て行った」
「漆原さんは、ずっとここに?」
「壊すにも金がかかるし――少ないが何人かはまだ住み続けたいと言われたからね」
 宮奈は、まだ住んでいるのか。
 言葉が喉にひっかかり、結局口をつぐんだ。
「以前住んでいた部屋を見てきてもいいですか」
 代わりにそう聞くと、漆原は好きにしな、と告げ、廊下の端に消えた。

 

 一体築何年なのか、勝海が住んでいた当時からあじさい荘は古く、電灯をつけていてもじめついた暗さがそこかしこに溜まっていた印象がある。
 コンクリートの壁のせいで、冬は異常に寒く夏は暑い。エアコンはそもそも設置する想定をされていない。皆、冬は石油ストーブ、夏は扇風機でしのぎ、家庭によっては窓枠に嵌め込むタイプのエアコンを使っていた。風呂釜は小さく、実家でも見たことのないような旧型のものだった。隣人がそれを壊してしまい修理を依頼したところ、同型のものはもう販売していないと言われ、以降は銭湯生活を余儀なくされたという。
 その代わり家賃は破格に安かった。オンボロマンションでの暮らしであっても勝海にとっては夢のような生活だった。宮奈と共に暮らせるなら、どんなところでも竜宮城になると本気で信じていた。
 宮奈は、初めて自分を偽らずに得られた同性の恋人だった。透き通るような白い肌に触れるたび指が震え、宮奈はその怯えたような様子を見て切れ長の目に微かなからかいを浮かべて微笑んだ。同い年であるのに、そういったことの経験は宮奈のほうがずっと豊かだった。早熟で家に居場所のなかった宮奈は年齢を偽って年上の女たちの家を渡り歩きながら生活していたという。以前は男の子のように髪を短くしていたと宮奈は艶やかな長い黒髪を指先で梳きながら言った。
 そんな彼女も偽らずとも大人と言える年齢になり、勝海と出会った頃には事務員の仕事を始めて数年が経っていた。勝海は、しばらくの間それが安全で安定した仕事だと思い込んでいた。なにせ『事務』だ。実際のところそれが決してクリーンではない貸金業者の総務の仕事なのだとわかってから、勝海は宮奈が吸わないはずの煙草の香りを纏って帰ったり、職場でゲロ掃除をさせられたと言って不貞寝する理由を明確に知った。そういう業者には、金を貸してもらう立場だというのに礼儀を知らない客が訪れることも珍しくないのだという。
 勝海は、初めてその事実を知った時、少しの間黙り込んで難しい顔をした。しかし最後は、
「宮奈ならそういうところでもきっとうまくやるよ。でも、つらくなったらいつでも相談して」
 と言った。
 勝海のそういう天真爛漫なおおらかさを、宮奈は気に入っていた。
「勝海といると安心する」
 普段は言葉少なな宮奈が長い睫毛を伏せて時折、そう言う時、勝海は天にも昇る心地がした。恋人より背が高く体格もよい勝海は腕の中に宮奈の細い肩をすっかり収めてしまい、深い満足の中で彼女の艶やかな黒髪に鼻先を押し付けた。

 

 幸せな日々は長くは続かなかった。
 ある日、勝海は唐突に職を失った。二駅先の老夫婦が営む小さな食堂で勝海はウエイターをしていた。勧められて調理師の資格を取ったあとは、少しずつ調理場に立つ仕事も任されるようになっていた。だが、夫人が転倒し骨折したことをきっかけに老夫婦は店を閉め、地方に住む息子夫婦のところに身を寄せることを決めた。退職手当は当然のように払われなかったが、本当はもっと長く働いてほしかった、あんたがうちの子だったらよかったのにと言って涙ぐむ雇い主に、勝海は優しく手を握ってお元気でと告げるしかなかった。
 同時期に、宮奈が少しずつ調子を崩していった。丑三つ時を過ぎても眠れず、朝方気絶するように入眠したと思うと、仕事に出る時間であってもベッドから起き上がれない。会社は、幾度かの悶着の末に、辞めることになった。
 二人とも働けないのでは、いかに家賃の安いあじさい荘といえども暮らしていけない。宮奈は実家と絶縁しており、帰るところがなかった。勝海は宮奈のことを家族に話しておらず、実家からの支援を期待することもできなかった。東京から出て、より家賃の安いところに越すことも考えないではなかったが、宮奈の通院と引っ越し代を考えると、悩ましいところだった。
 勝海は、ガールズバーで働き始めた。給与は以前と比べると驚くほどよく、明け方まで働いて始発で帰り、朝の光の中で眠れば、夕方に近づいてようやく少し調子の出てくる宮奈と一緒に食事を取ることができた。嫌な客に遭うこともないではなかったが、生来明るく、物事を深く捉えすぎない勝海には大きなストレスにはならなかった。
 そういう生活が、一年近く続いた。
 宮奈の症状には波があったが、回復しつつあった。慣らしながらであれば、そろそろ働くこともできるだろうと医師は言った。
 だが、勝海には不安があった。もしまた、彼女が再発したら。また、自分が職を失ったら。自分たちも年々歳を取っていく。いつまでも女の若い時期を売るような仕事で稼ぎ続けられるものでもない。来年、再来年はなんとかなっても、十年後、二十年後に同じように乗り越えられる保証はない。
 そんなある日、職場に一人の老人がやってきた。男は隅の席で静かに過ごし、幾人かが相手した。男は何故か一滴も酒を飲まず、すすめられてもノンアルコールビールを飲むのがせいぜいだった。男は一週間、毎晩店に通ってきた。中でも勝海のことを気に入ったようで後半は毎日指名した。男はフランスから旅行で来ているという。どう見ても顔立ちはアジア系のそれだったが、若い頃に移住しフレンチのシェフのもとで修行して、向こうに店を持ったのだと語った。宮奈は、目を輝かせた。
「実は私も、ほんとは料理人になりたいんですよね」
 ウーロン茶を渡しながら、勝海は言った。
「この仕事も好きだけど、たとえば将来店を持って、それが繁盛して、金持ちになって、みたいな夢は持ちにくいじゃないですか。海外で修行して、日本で店が持てたりしたら最高だなあ……」
 男は穏やかそうな目をさらに細めた。
「そうしたらいいじゃない。まだ若いんだから今からでも遅くないよ」
「うーん、でも、金もないし」
 薄い布団にくるまり猫のように丸くなって眠る宮奈の姿が思い浮かんだが、口には出さなかった。
「実はね、僕、末期がんなんだ」
 勝海が言葉を失っていると、男は勝海の手の甲に自分の手を添えた。時刻は十二時を少し過ぎた頃。終電を目指して帰る客と居残りたがる客のやりとりが聞こえる。新たに入ってくる客を迎える、同僚の甲高い声。店にいる他の誰もが、忙しげに立ち上がり、また座り、笑いさざめいていた。勝海と男の周りだけが切り取られたように、しんとしていた。
「余命はもう一年ほどだと言われてる。でも一人きりで耐えるには、一年は長い。それで……恥ずかしい話だけど、最期を一緒に過ごしてくれるお嫁さんを探しに、日本へ。もうあと、数ヶ月もすれば痛みが酷くなって動けなくなるだろうと言われてる。財産は少なくないほうだと思うんだけど、あなたが僕とフランスに来てくれるなら、すべてをあげたっていい。介護をしてくれたら、代わりに残った財産をあげる。昔のツテを辿って仕事先も紹介するから、僕が死んだ後は勉強がてらフランスで働くこともできると思うよ」

 

 翌日、勝海は宮奈に告げた。
「私、一年だけ結婚してくる」

 

 旅立つ日、漆原が中庭で草むしりをしているのを見かけた。まだ日の昇りきらない早い時間ではあったが、大きな麦わら帽子をかぶり、庭にしゃがみ込んでいる。
 電車の時間には少し早かった。荷物を足下に置き、勝海は漆原の隣にしゃがみ込んでひょろりと長い草を抜いた。漆原はちらりとこちらを見たが、抜いた草はあそこに置いてくれと雑草の塊が小山になったのを指で示しただけですぐに作業に戻った。
 互いに無言で、草を抜く。
 地面だけを見て黙々と手を動かしながら少しずつ移動するうち、建物の壁が目の前に現れた。顔を上げると、つる性の植物が建物の端に触手を伸ばし、上へと伸びようとしている。隣道からの目隠しのためと思われるコンクリートの壁と、建物の隙間を覗き込むと、暗くて狭い隙間にびっしりとそれがはびこっているのが見えた。緑色だけではない。隙間には、葡萄を逆さまにしたような紫色の花が咲いている。
 何年も住んでいたのに、こんなことになっているとは気づきもしなかった。
「ここは、いいんですか」
 聞くと、漆原は顔を上げた。
「葛だろう。それはたちが悪いから、そのうち業者に頼む。放っておいていい」
「雑草なのに花がかわいい」
「かわいいもんか。全く、東京に来てまで葛に苦しめられると思わなかった。どこから飛んできたんだか」
「東京にずっと住んでたわけじゃないんですか」
「結婚してここに来たんだ。この家も旦那の持ち物でね」
「旦那さん……」
「もう二十年も前に死んだよ」
 勝海は、近くの雑草を探すふりをしてうつむく。壁際に小さい頃よく友人と遊んだぺんぺん草を見つけて抜きに行く。
「旦那さんと、仲、よかったですか」
 背中を向けながら、声だけを投げる。
「全然。別に好きで一緒になったわけじゃない」
「じゃあどういうきっかけで?」
「見合い。そういう時代だったんだよ」
「へえ……」
「早く死んでくれてせいせいしてるよ。土地を残してくれたのはありがたかったがね。あんたみたいな若いのから、金を搾り取って生活できる」
 漆原は、物語に出てくる悪い魔女のように笑った。
「私、今日で出て行くんです」
「おや」
「でも、宮奈は……一緒に住んでた子は、まだここに住み続けますし、私もそのうち戻ってくるので」
「二人で家賃割ってたんだろう。一人になって残った子は大丈夫なのかい」
「……大丈夫だって、言ってました」
「そう」
 別に一人だろうが二人だろうが、私は家賃さえ払ってくれれば何でもいいんだけどねと漆原は言って、腰を伸ばした。これまでの礼を言い、勝海も立ち上がった。建物の隙間で、風にあおられた葛がかさかさと葉をふれあわせ翻る音が聞こえ、それは電車の中でも飛行機の中でも、長く耳元で鳴り続けた。

 

 あじさい荘にはエレベーターなどという上等なものはない。重いキャリーバッグを一段一段引っ張り上げながら、昇っていく。
 踊り場の隅には蜘蛛の巣が張り、壁は薄汚れている。上がった先の二階は、夕闇に沈んでいた。各部屋の廊下の天井にかつては電灯がついていたはずだが、廊下の端から二番目の部屋の前のものが一つついているだけで、他は全て切れているようだった。唯一残った電灯も、ちか、ちかちか、と不規則に瞬いて切れかかっている。
 唐突に頭上で、ととと、と何かが走る音がした。子どもか、誰かが飼っているペットか、それとも鼠だろうか。
 そういえば、足音が聞こえるという噂を聞いたことがあった。
 勝海が聞いたのは、いつも日曜日に中庭でシーツと大量のお子さんの洗濯物を干していたシングルマザーからだった。彼女は、三階の住人から聞いた。
 その三階の住人は男性で、仕事を辞め、直近数ヶ月は失業給付で暮らしていた。働いていた頃より収入は下がるので、自然と家で過ごす時間が長くなる。
 ある霧雨の日、こつ、こつ、とヒールの音をさせて、誰かが廊下を歩いているのに気づいた。来客だろうかと思ったという。その頃三階の住人は、足の悪い老婦人と、男性が二人、残り一つは空き部屋だった。ハイヒールを履くような人は、思い浮かばなかった。
 時々、同じ足音を聞くことがあった。それは決まって、雨の日の夕方四時ごろだった。
 何度も聞くにつれ、おかしいと感じるようになった。耳を澄ましても、隣の老婦人の部屋から生活音は聞こえない。三階に住むもう一人の男性を見かけたことがあるが、勤め人らしくくたびれたスーツ姿で、昼間、部屋にいそうにも思えなかった。
 それに、靴音はなぜか、いつも一定のリズムを刻んでいた。普通の人ならば、急ぐこともあるし、気分がよければ足取りが軽くなりもする。逆に気鬱の時は足運びが重くなる。それなのに、聞こえてくる靴音は、毎回、全く同じであるように聞こえるのだった。
 彼は思い切って、魚眼レンズで外を見てみることにした。行ってしまう前にと、静かに、しかし急いで、扉に駆け寄る。
 レンズから覗くと、赤いハイヒールを履いた、女の足が見えた。ちょうど、彼の部屋の前を通って、階段を登ってゆくところだった。上に視線をずらすと、小花を散らしたふんわりしたスカートがあり、きゅっと絞られたウエストがある。背中には、綺麗に手入れされた長い黒髪が流れている。
 だが、いつもは封鎖されているはずの屋上に、何の用があるのだろうか。今日は、何か特別な催しでもあって、屋上を開けているのだろうか。
 彼は、そっと部屋を出て、女の後をつけた。
 すでに、階段には女の姿はなかった。
 屋上の手前にはやはりいつもの通り鎖が下げられている。試しに扉を開けようとしたが、鍵がかかっていて、外には出られなかった。
 女は鍵を持っていて、外側から施錠したのではないか、だとすると、少しして戻ってくるのではないかと、部屋で神経を尖らせていたが、足音が再び聞こえてくることはなかった。
 赤いハイヒールの女は屋上の手前で、煙のように消えてしまったということになる。
「あれは絶対、超絶美人だって言うのよ。デートでもするみたいな格好で歩いてたのは、失恋か何かが原因で自殺した子だからじゃないかって。おかしいでしょ」
 シングルマザーは彼の話を信じていないようで、笑いを噛み殺していた。
「何回もトライしたけど、どうしても顔が見えないんだって。それでね、あなたに聞きたかったのは、二階でも足音って聞こえるのかなってことと、そういう雰囲気の女の人を見たことあるかってことなんだけど」
 私は首を傾げた。記憶をさらってみても、該当するような経験はない。黒髪ロングの美人には覚えがあったが、宮奈はふんわりした小花柄のスカートなんて履くタイプではない。赤いハイヒールも、うちの靴箱にはなかったはずだ。
 シングルマザーと別れたあと、たまたま外周の掃除から戻ってきたらしい漆原と鉢合わせ、噂について聞いてみた。
「幽霊なんかいないよ、くだらない」
 漆原は、呆れたような顔をした。
「いたとしてもね、人は愛だの恋だのじゃ死なないもんだよ。大抵の理由は金さ、結局」
 漆原の、いつにも増して露悪的な言い方に、何か含みを感じないではなかったが、そういうものかと勝海は納得したのだった。
 先ほど音が聞こえてからしばらく天井を見つめていたが、次いで何かが聞こえることはなかった。
 勝海はまた歩き始める。
 電気のついている部屋の更に奥が、二人の暮らした部屋だった。
 
 その部屋を出ることを決意したとき、宮奈は勝海をあらゆる言葉で罵った。騙されているんだと諭したり、女しか好きになれないと言ったじゃないかと泣いたりもした。事実、勝海は男の事を愛してなどいなかった。遺産を手に入れたら宮奈のところに戻ってくるつもりだった。男も、結婚をすると言ってもセックスはなしでいいと言った。そういったことを、勝海は一生懸命に説明した。
 男との生活では、約束の通りセックスという意味での性的な接触はなかった。男は、なるべくすべての看護や介護を、勝海が家で行うことを望んだだけだった。
 最初の数ヶ月は、通院を手伝い薬を管理するくらいで済んだ。だが、次第に男の体がきかなくなり、ベッドで過ごす時間が長くなるにつれて、男の寝姿勢を変えさせたり体を拭いたりする必要が出てきた。介護は未経験だったが、本を読んで学び、最後は排泄物の処理もした。男は、自分の裸の体に触れる勝海を満足げに見つめた。病院と複雑なやりとりをせねばならないときだけ使うことを許可されていた通訳者に顔色の悪さを指摘されたことがあった。彼女は親切にも、介護に関する外部サービスを紹介すると言った。だが、勝海は笑って断った。
 そんなある日、東京で地震が起こった。未曾有の被害は、海を越えてフランスでも報道された。
 一番に頭に浮かんだのは、宮奈のことだった。勝海は、心が弱ってしまうからと連絡を絶っていた宮奈に、メッセージを送った。いくつもいくつも、送った。何日待っても、返事はなかった。既読のマークすらつかなかった。
 しばらくして、勝海は諦めた。宮奈は自分に飽きたか、地震で被害を受けて亡くなってしまったのだろうと思った。フランスに渡ってから、もう二年が経っていた。
 勝海は、フランスで働き生きていく方法を考えるようになった。いつか親しくしてくれた通訳者から熱心に言葉を学び、いよいよ最期の時が近づき男が入院すると、日本人向けのツアーガイドを始めた。もう、料理の仕事でなくてもよかった。むしろその方が、良かった。
 余命宣告から三年後、男はようやく死んだ。男が思ったより長く闘病生活が続いたために、財産はほとんど残らなかった。医療費と、二人が働かずに生きてゆくための金に消えてしまったのだ。
 それから七年、勝海はフランスで過ごした。旅行者の付き添いで地方に行ったとき、古びた家々の壁に名の知れぬ植物が緋色の花をつけているのを見た。旅立ちの日に、見かけた葛の花を思い出した。勝海の住んでいた場所にも同じような花はあったはずなのに、どうして今になって過去を重ねたのかはわからない。勝海は、置いてきた宮奈を想った。預金通帳を見た。以前なら日本とフランスを往復できたほどの預金は、原油高の影響で高くなった片道のチケットを買ったら、ほとんど残らないだろうと思われた。数日考えた後、勝海は日本へ帰ることを決意した。
 
 二〇四号室の前に立つと、違和感を感じた。これまで通り過ぎてきた部屋とは、どこかが違う。部屋が、生きている感じがする。勝海はその要因に気づいた。魚眼レンズから輝々と光がこぼれていた。覗き込んでもこちらからは何も見えない。そっとドアノブに手をかける。鍵は、かかっていなかった。
「……ただいま」
 逡巡の後、おそるおそる呟く。十年も留守にしていて、ただいまもなにもない。それに、中にいるのは宮奈とは限らない。知らない人が住んでいた場合の言い訳を考えながら、ゆっくりと扉を開く。明るい。誰かが、確実に住んでいる。入り口のすぐ隣には短い廊下とユニットバスへ繋がる扉があり、数歩入った先にワンルームがある。勝海は部屋が見渡せる位置で、思わず立ちすくんだ。
 十年前に住んでいた部屋と、何ひとつ変わらぬ部屋がそこにあった。六畳ほどの畳敷きの部屋。古いキッチン設備は清潔に磨きこまれ、シンク上部の棚には、洗剤のボトルと勝海が気まぐれに買ってきた小さなサボテンが載っている。部屋の中央には小さなテーブル──冬にはここに布団をかけてこたつにする──、そして、奥にはすのこの上にマットレスを重ねただけのベッド。ベッドの上の薄い掛け布団は、人の形に盛り上がり、誰かがこちらに背を向けて横たわっている。垂れ落ちる、長い黒髪。
「宮奈」
 呆然と声をかけると、布団がもぞりと動いた。痩せた体を起こして振り返ったその人は、確かに宮奈だった。
「勝海……?」
「宮奈!」
 駆け寄る。抱きしめた肩は、記憶よりずっと細かった。ばらばらに伸びた髪は艶やかさを失い、ぱさついている。顔を見れば眼窩は落ちくぼみ隈が浮いている。病気の再発を繰り返しているのだろうと容易に想像がついた。悔恨が、勝海の胸を満たした。乾燥し、ところどころ皮のめくれ上がった唇がわななき、しわがれた声が弱々しく発せられる。
「なんで今更……」
 勝海は、もう一度その痩せた体を、搔き抱いた。
 その晩、二人はベッドの上で寄り添いながら過ごした。十年の月日を埋める話は山のようにあったが再び会えた感慨が言葉を溶かし去ってしまったかのように途切れがちになった。浮き上がった肋骨を服の上から撫でていたはずの勝海の指は、いつの間にかシャツの下に入り込み、宮奈もそれを拒まなかった。勝海の指と唇は宮奈のからだのあらゆる窪みを辿り、涙が肌を濡らした。あえやかな声をあげ息を乱そうとも、与えた熱は端から冷めてゆくようだった。中心の泥濘だけが、まるで別の生き物のように暖かかった。
「もっと早く帰ってくればよかった」
 行為のあと、勝海は呟いた。
「どうして連絡を返してくれなかったの」
 宮奈は答えない。じっと勝海に背を預けている。言えないようなことも、沢山あったのだろう。勝海はそう納得する。目の前には、温かな勝海の腕に抱きしめられ、押し入れから引っ張り出したもう一枚の布団にくるまれても尚、ひえびえとしている宮奈のからだがあった。頭に、耳の裏に、口づけを落とす。
「結婚なんて、しなきゃよかった。貧乏でも、ずっとここにいればよかった」
「本当に?」
「うん、ほんとだよ」
「私のこと、愛してる?」
「……うん」
「ずっと一緒に、ここにいてくれる?」
「……」
 勝海は、答えられなかった。 
 宮奈は、勝海の腕から抜け出した。裸のまま、勝海の上に馬乗りになる。
 半ば開いているカーテンの隙間から、月光が幾筋も差し込んでいた。宮奈の白い肌が、さえざえと、暗い部屋の中に浮かび上がって見える。
 宮奈は、ゆっくりと、勝海の上に覆いかぶさってきた。吐息が首筋にかかる。何度キスを重ねても気づかなかったのに、呼気が、今はやけに生臭く感じる。宮奈の手が、裸の勝海の肩から腕を撫でる。愛しい人に触れられているはずなのに、自分自身が、いつの間にか身を固くしているのに勝海は気づいた。そっと身じろぎして、彼女の手から逃れようとする。指先は、名残惜しげに勝海の肌に余韻を残しながら、ゆっくりと離れてゆく。離れると同時に、重さが消えた。
 誰かがスイッチをゆっくりとひねったかのように、月光が、すう、と細くなり、完全な闇が訪れた。
「ずっと一緒に、いてくれる?」
 闇の奥から、声だけが響いてくる。
 勝海は起き上がり、自分の体を守るように背を丸めた。指先の感覚で、ベッドの縁を探る。
「いっしょ、に、イテ、くれル?」
 奇妙な抑揚で、声は続く。
 焦って目測を誤り、手が宙を掻いた。ベッドから転げ落ちる。ちょうどその下に落ちていた服をかき集めて、体の前に抱く。
「あい、シ、てる」
 それは宮奈が、絶対に言わなかった言葉だった。勝海からは、何度も言った。繰り返し、飽きるほど、伝えてきた。べつに、言葉を返してくれなくてもよかった。瞳から、態度から、触れる指先から、それは伝わってきた。
 だから、これは、宮奈じゃない。
 たとえ、宮奈だったとしても。こんなふうに彼女を変えてしまったのが自分なのだとしたら。
「ずっと、ずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっとずっと」
 私は、私の、理想の宮奈しか見ていなかった。そう、勝海は思った。
 理想の宮奈は、美人で、儚くて、自分の支えを必要としていた。理想の宮奈は、どんな選択をしても決断を受け入れてくれた。理想の宮奈は、約束の期限が過ぎたとしても、勝海を信じて待っていてくれるはずだった。理想の宮奈は、もしかしたら死んでいたかもしれなかった。震災で。病気で。不慮の事故で。自分が帰れないうちに、その、儚げなイメージのままに。
「ずっとは、無理かも。私はあなたに、もう嘘をつきたくない」
 闇が、ざわめくのをやめた。
 逆回転するように、元の明るさがゆっくりと、戻ってくる。月光差し込む窓辺に、誰かが立っていた。寂しげに肩を丸めたその人の顔は、逆光のせいで判別がつかなかった。


 そうして勝海は、意識を失った。

 

 爆発音のような音に身を震わせ、勝海は目を開けた。寒い。身を起こすと、転げ落ちたはずのベッドの上だった。服も、きちんと身につけている。
 体を起こそうとして肘が何かにめり込み、体勢を崩す。ベッドマットと思っていたものには多数の穴が開き、黒々と湿っていた。反射的に飛び退く。混乱した頭であたりを見渡し、愕然とした。
 畳や壁は雨漏りに濡れて黴び、斑模様ができている。キッチンの扉の一部は外れ、シンクには錆が浮いている。ボロボロの布が傾いたカーテンレールの端にまとまり、割れた窓から入る風に揺れている。部屋の向こうから朝の光が差し込んでいてもなお、電灯のない部屋は暗く、じめじめとした空気が澱んでいた。
「なんで、今更」
 昨晩と同じ台詞が、違った響きで耳に入る。
 振り向くと、女がいた。
 ああそうか、と納得する。
 それは、宮奈だった。
 昨晩とは様子が違う。目の前にいる女の不健康に青白い肌やつり上がった目は十年前と変わらなかったが、黒髪はばっさりと短く切られ、顔は年相応に老けていた。
 まだ、三十代のはずだ。それでも、あの頃とは違う。
 頬の瑞々しいハリは失われ、顎のラインが僅かに緩んでいる。冷たい表情を浮かべる切れ長の目の縁には、細かな皺が影を作っている。宮奈の後ろに見える扉は開け放たれたままになっており、先ほどの爆発音のような音は、それを蹴り開けたか壁にぶつかるほど乱暴に押したのだろうと思われた。
 この十年を、この人は生き抜いてきたのだ。そう思ったら、涙が出た。
「宮奈……」
「てめえが泣いてんじゃねえよ。泣きたいのはこっちのほうだから。どの面下げて帰ってきたんだって聞いてんの」
「ごめん、宮奈。だって」
「だっても糞もあるか。金は?」
「え」
「遺産。もらったんでしょ。いくら?」
「なくなっちゃった」
 宮奈の顔から表情が消えた。人でも殺しそうな顔ってこういう顔のことを言うんだろうと勝海がなすすべもなく見つめていると、宮奈は怒りの籠もった仕草で、転がっていた勝海のキャリーバッグに取りついた。
 黒ずんだ背景の中で唯一、場違いなほどに明るい色合いの、大きな箱。宮奈はそれを持ち上げ、よろめきもせずに窓辺に走り寄った。
 抱え上げる。細い腕をしている筈なのに、不思議と重そうには見えない。
 宮奈は肩の上に掲げたそれを勢いよく割れかけた窓に投げつけた。
 バリンとガラスの割れる音が派手に響く。
 次いで、重いものが地面に叩きつけられる音。
 宮奈はそのまま勝海の顔も見ずに、大股に部屋を出て行った。勝海はしばらく、その場にへたりこんでいた。


 どれだけ時間が経っただろう。ノック音が聞こえ顔を上げると、開きっぱなしのドアの前に、漆原が立っていた。
「一晩ここにいた?」
 頷くと、漆原は顔を顰めた。そんなはずはないと言う。
 昨日の夕方、漆原と階下で出会ってすぐ、宮奈に勝海が帰ってきたことを伝えた。前の部屋を見てくると言っていたと伝えると、宮奈は勝海を探しに行った。だが、二◯四号室には鍵がかかっており、人の気配もなかったという。
 壊れた別の部屋に入り込んでいてはいけないと二人で鍵がかかっていなかった全ての空き部屋を探し回ったが勝海は見つからなかった。もう帰ってしまったのだろうと二人で話し、眠ることにした。翌朝、もう一度宮奈が二◯四号室に来ると、扉が何故か開いていた。驚いて入ると、かつてベッドだったものの上で、勝海が寝ていた。
「経緯はまあ、どうでもいいんだけど――あのさ、あんた、早くあの子引き取ってくんないかな」
「え?」
「付き合ってたんだろ。でも、あんたがいなくなってから、あたしの部屋にずっと入り浸ってるんだ。迷惑してんの」
「宮奈が、ご迷惑を……?」
「今思えば、仏心出してあんたが消えた時に慰めてやったのがよくなかったんだ。あたしが女もいける口だってわかった途端に、私は年上の人が好きなんですとかなんとか言って迫ってくるわ掃除してる隙に勝手に部屋入って飯作って待ってるわ。夜は夜で布団に入ってこようとするし、拒否すりゃ泣くし。私は一人で静かに暮らしたいって言ってんのに」
 声も出せずに漆原を見つめていると、彼女は視線を落として、足元に落ちていたプラスチックのコップを蹴り飛ばした。
地震で部屋が壊れたというから無事だった上の部屋をあてがってやったんだ。なのに、家具は新しいのを買ったとか言ってこの部屋を片付けもしないし。律儀に家賃だけはふた部屋分毎月振り込んでくるが、そういう問題じゃないんだよ。……そういや働いているそぶりもないけど、どうやって金を工面してるんだか」
 漆原は嘆息の後、株でもやってんのかな、と独り言のように言って部屋を出て行った。
 勝海は、のろのろと起き上がった。硝子を踏まないようにしながら窓辺に近づき、下を覗き込む。
 庭にはカラフルなキャリーバッグが、昨晩の雨露のまだ残った雑草の布団に埋もれるようにして横たわっていた。晩夏の日差しが一秒ごとに強まり、露を輝かせる。しばらくその様に見入ったあと、勝海は、二〇四号室の扉を丁寧に閉め、階段を駆け下りていった。