まゆびらき日記

虚実ないまぜの日記と小説。

私にとっての海は「非日常」だ

小さい頃、夏は父母の車に乗ってよく海に行っていた。
一度だけ、雨が重なってしまったことがあったのをよく覚えている。
その日私は、海の家で荒れる海の絵を描いた。
絵を描くのは嫌いではなかったから、悪い思い出ではない。でも、なんだか地味な色の絵になってしまった。

今思えば、想像力を膨らませて、晴れている日の海を描いたってよかったんだと思う。私はいつもそうで、目の前にあるものを忠実にうつしとろうとしてしまう。

夏休みの宿題として提出したその絵は、何かの賞を取るでもなく先生に褒められるでもなく、ひっそりと教室に貼られて、写生会のある秋にはまたひっそりと剥がされた。


自分で行けるようになった海

そんなふうに、すごく楽しかったわけではない思い出でも、今もはっきり思い出せる。そもそも、海なし県に生まれ育ったせいか、海にはどこか特別な想いがある。いつ見ても、「海ってこんなに広かったんだ……」と新鮮な気持ちで呆然とする。

海は私にとって、「非日常」だ。

相変わらず内陸に住んではいるが、今はもう、父母に連れていってもらわなくても自分でいつでも海を見に行ける。

海のある県への出張があれば積極的に手をあげたし、電車で1時間くらいの海沿いにあるお客さんには電話で済む程度の用事でもわざわざ訪問した。パートナーと付き合い始めたころはしょっちゅう沖縄に旅行に行った。レンタカーで音楽をかけて、南から北にずーっと海沿いを走るのが楽しかった。仕事で疲れ切っていた年末、突然「海を見に行きたい」とわがままを言って二人で江ノ島に行ったこともあった。

一つ一つ、行ったことのある海はみんな、印象深く覚えている。

あの頃から変わったもの、変わらないもの

残念ながら今は、なかなか気軽に「海に行こう」と言えるような状況ではなくて、少し悲しい。

でも、私の中には海への「好き」は残っている。

コロナ禍が始まったばかりの頃に書いた小説の中には、海の情景を登場させた。ふと思い出して読んでみたらやっぱりキラキラの海じゃなくてどんより曇った空の下の灰色の海が描かれていた。完全なる想像の中なんだからキラキラの綺麗な海を出したっていいのに。内面は小学生のころから全然変わらないもんだなと思って笑ってしまった。

もう少し先にはなるけれど、法律では結婚できない同性のパートナーと、せめてウェディング写真を撮りに行きたいねと話していて、その候補の一つは沖縄だ。また二人で海沿いを車で走りながらたくさんおしゃべりしたい。あの頃はどれだけおしゃべりしても時間が足りなかったけれど、今はどうだろう。きっとそこはあんまり変わらないんだろうな、という変な確信がある。

「非日常」だからこそ全部覚えていられるし、振り返って変わったもの、変わらないものを確認できる。思い出して、愛おしむことができる。

これからも海と共に、いくつもの思い出を重ねていきたい。

#海での時間